物語の主人公に

最近、涙もろくなったなーと思います。

 

映画でも漫画でもテレビ番組でも、感動の演出がされていないようなところでもついホロっときてしまうことがあります。もちろん作品内の登場人物に感情移入していることもあるのですが、そうではなくその作品が作られた「過程」を想像してグッとくることがよくあります。

 

このシーンができるまでにどれだけの時間がかかったのだろうか、どれだけの思いがそこにあるのだろうか。それを想像するだけでご飯が何杯もいけてしまいます。スポーツやライブなどを見ていてもそうですね。得点シーンよりもチームプレーであったり献身的な守備のシーン、人気曲のサビを演奏している時よりも間奏中にメンバー同士が目配せしているところなどが記憶に残っていたります。

 

だけれども、それは私が勝手に想像して感動しているだけのことです。「外野席」にいる私には、「マウンド」「舞台」の中にいる作者やスタッフ、選手、演者の思いや、かけた時間や乗り越えた困難などはを本当に理解することはできません。あくまで想像するだけで、それが受け取る側の楽しみの一つではあるけれど、そのストーリーに本当の意味で参加することはできない寂しさでもあります。

 

勉強も同じで、本気で勉強を始めた受験生はそのストーリーの主人公になります。自分が体験し、考え、感じることが全て本物の物語です。受験が終わり、お話が一段落ついたときにはきっと何かを手にすることができるでしょう。それは合格・不合格といったただの結果ではなく別の、その物語を生きた人にしか手にできない何かです。

 

一方、それを「外野席」で見送ってしまった生徒たちも毎年一定数います。受験を自分のものとして頑張れなかった生徒たち。そういう子たちも、高校や大学へ進学する大きな流れに乗っかっているので、次の進路への道はそれなりに手にできるかも知れません。でもそれは自分がマウンドに上がった結果ではなく、舞台に出たわけではなく、人を感動させる映像を切り取ったり絵を描いたりしたわけでもありません。客席から見ていただけの人が、次の作品の「観覧席」のチケットを手にしただけです。

 

マウンドに出なければボールも飛んでこない。確かに客席は安全が守られています。本気の受験生にならなければ失敗したときに傷もつきません。志望校に落ちても何日か落ち込んだらその痛みもすぐに消えます。また元通りのお客さんとして、客席でまどろんでいることでしょう。

 

でも安全な客席からでは何を言っても本気の舞台に出ている人には届きません。「外野席」からの言葉ではそのストーリーの主人公を変えることはできない。ずっとこの先も、ちょっとの寂しさを抱えながら主人公を応援し続けるだけです。

 

もくせい塾に通っている生徒たちには、全員が自分の勉強の主人公であって欲しいと願っています。次々と流れているストーリーを目だけを動かして眺め続けるのではなく、自らも飛び込んでいって欲しいと思います。後になって、何も残らなかったなんてことは一番寂しい。そうならないためにも、今すぐ観覧チケットを捨てて走り出しましょう。

 

がむしゃらに走っているうちに、応援してくれる人が現れます。私がその一人です。私、涙もろいんでなかなか良いお客さんになれると思いますヨ。