お寿司食べたい

綺麗に食べられる人って、「大人だなぁ」という気がする。

食べ物で遊んじゃいけません


回転ずし店で問題行動を起こした人って、どんな心理なのだろうと考えていた。別にこういう迷惑行為に対して義憤があるわけでもなく、単純な興味で(同じ店舗経営者として、被害を被ったお店に同情はある)。コンビニのおでんを素手で触った人や菓子パンの袋に穴を開けてた人とかもいた。

 

なんとなく「常識が無い」というのとは少し違う気がする。今回たまたま多くの人の目に留まっただけかも知れないが、常識の問題だとしたらそれ以前に回りの人の間で問題になっていてもおかしくないし、SNSを使う程度の学習能力はあったはずだ。常識を学んでいないはずがない。

 

やった人たちにも個性があるだろうしそれぞれ違うのだろう。でも「これをやれば注目される」ということを思いついた時に、それによって「迷惑をこうむる人」について考えられなかったのは確かだ。それはつまり他者への想像力が足りないということだろう。

 

ところで、勉強の到達点のひとつとして、「他者への想像力の獲得」が挙げられる。人にやさしくできる人って経験と想像力がある人だよね。塾でも「もうちょっと周りの人への想像力があればな」という子が数年に1人くらい来る。もちろん他人の寿司に唾液を付けたりはしないだろうけど、カバンを床に置くときの音がうるさかったり、消しゴムのカスを床に払ったり、停めてある他の人の自転車カゴににゴミを捨てていったりと、ちょっとしたことで「惜しいなぁ」と思う。

 

昔、ある生徒が本棚の前で私を呼び、

 

「先生、ここ本が倒れていて本が返せません」

 

と言われて仰天したこともある。自分で直すことを思いつけなかったのだ。教えれば改善できるだろうけど、こういうのは自分で気づけるのが大事だと思う。

 

自分の自己意識の範囲みたいなのが、自分の体よりも大きくなっている人っている。外でも自宅で子が親に対するように振舞っちゃう人。その範囲が拡大し続けると、自分の満足のためだけに飲食店が大ダメージを受けるような行為をしてしまうのかも知れない。それが、その店で働いている経営者や従業員、さらにはその家族を路頭に迷わせる可能性があることも考えずに。

 

他者への想像力は、自分と他人は違うというところから出発する。自己が広がり続けると、どこまでも自分しかいなくて、どこでも自分の思うままに振舞えると勘違いしてしまう。自分と他人は違うと認識することは、自分と他人の間に境界線を引くこと。それは自分の輪郭をはっきりとさせ自己と他者を切り離す、つまりは自立するということだ。学問だけに限らず、スポーツでも交友関係でも勉強することによってそれは成しえると思う。

 

だからこういうことしちゃう人って、ちゃんと勉強を教えてくれる人に出会えなかった人なんだろうなと思う。自分は回転ずしのしょうゆ差しを舐めてしまわないように気を付けたい。