面倒見の良さは生徒に楽をさせることじゃない

もくせい塾を立ち上げる当初からずっと思っていることのひとつに、「生徒の機会をできるだけ奪わないようにする」ということがあります。

 

子供の代わりに何かをやってあげることは一見良いことのように見えますが、実は子供がそれをやる機会を「奪っている」ことにもなっているのではないでしょうか。例えば塾の現場では、生徒が分からない言葉にぶつかったとしたとき、講師が教えてしまったほうが絶対に速いのですが、それをあえて時間をとって辞書で調べさせます。生徒が調べている間、指導は止まりますし時間は過ぎてゆきます。実は講師の視点としては、それを我慢して待つのはそれなりにストレスを感じる時間です。しかし、その手間を惜しんで意味をさっさと教えてしまった瞬間に、生徒に依存体質の種を一つ植えてしまう。それが続くとやがてその種が芽を出し、「誰かがやってくれるだろう」と自分では動こうとしない人間になっていきます。これでは私の目指すものとは正反対です。

 

そもそも子供のチャンスを大人が奪ってしまう理由は、大人側の都合であることが多い気がしています。子供に任せていると時間がかかってしまうから。自分でやったほうが速いし正確だ。もし任せて間違えてしまったら、それを訂正するのが面倒臭い等々。こうした大人側の理由によって子供の学びのチャンスの芽を摘むのは実はとても残酷なことなのではないかと思っています。

 

昔、個別指導塾の塾長をやっていたときに、こうした「手厚い」指導の弊害を何度も見てきました。講師が生徒にどんどん「教えてあげる」。もちろん講師に悪気があるわけではありません。その塾では手厚く指導することが正しくて、60分なら60分、その授業時間内一生懸命「仕事」をしているだけです。でもその一方で、生徒は授業を傍観しています。先生が頑張るのを生徒が見るというねじれた状況です。それこそ生徒は塾に来てから声も出さず、手もほとんど動かすことすらなく帰るなんてこともありました。そうして先生が一生懸命になればなるほど、生徒は授業の端役に追いやられてしまう。先生が主役として歌って踊る授業です。なんでもやってくれるから生徒受けはいいのですが、それが学力に結びついているかというと「?」と思わざるを得ませんでした。逆にどんどん先生に依存し、学校で出された宿題ですら塾の授業で先生に解いてもらうような状況になってしまっていた生徒もいました。今考えると恐ろしいです。

 

そこで話がはじめに戻りますが、生徒に機会をたくさん持ってもらう。バッターボックスにたくさん入ることができたらその分ボールを打つ可能性だって上がります。そうして打ったフォームから、「これがいいんじゃないか」と思えるものが出てくる。これが勉強をしていくと得られる知恵になってゆくのではないでしょうか。だから講師の仕事は、自分がバッターボックスに入るんじゃなくて、コーチとして生徒をバッターボックスに立たせることにあると思っています。そんなわけで、単語の意味を聞きにきた生徒に対して、「そこに辞書があるから自分で調べろ」ということになり、生徒受けはすこぶる悪いです(^_^;)