質問力

「分からない所はこちらから聞き出しますよ」という答えはもう捨てた。

「質問しやすい」は本当に善なのか


もくせい塾では授業の最初に生徒からの質問を吸い上げるようにしている。「何か質問とかある?」と、まさかの授業の初めに聞かれる。

 

これは質問がたまって学習に穴が開かないようにする為だが、もう一つの効果も狙っている。それは「生徒の勉強が先週から『地続き』であると印象付ける」ことだ。

 

授業の初めに質問を吸い上げられるということは、それまでに疑問が出ていなくてはならない。だからその前の準備が必要になる。自学ありきの指導なのだ。この印象付けを続けることで、生徒は自分の学習に遠くを見通した時間軸を得ることができる。高校生の中にはこの仕組みの利用が上手な子もいて、毎回のように質問を出してくれる。自分の勉強に一貫性がある。

 

ところで、この仕組みを取るようになってから、「質問しやすい雰囲気づくり」に懐疑的になっている。昔はとにかく「アットホーム」で「親しみやすい」を目指していた時期があった。生徒を自習に誘い、自習している子に話しかけにいき、「どう?分からないところはない?」と話しかけていた。

 

もちろんこれにも一定の需要はあるのは知っている。その当時、保護者面談で「ウチの子、自分から質問できないんです」と親御さんに言われてそれを目指したのだから。

 

しかし、そうして質問を「お迎え」に行っていた当時の子が、その後質問を自らできるようになったかと言えば、まずそうはならなかった。もしかしたら、いつまでもお迎えを「待って」しまう子にしていたのかも知れない。思い出してみると、その当時も私に自ら質問に来る子は、もともと学力の高い子が多かった。これは私の顔が怖いこととは何の関係も無いだろう。質問も学力に関係のある「能力」である。だったら、それを伸ばさない手はないだろう。

 

もともとは「ウチの子、質問ができないんです」に応えるために始めた仕組みだが、こうして生徒に対し「質問をしてみて」という促しをすることで別の作用が働くようになった。今では小学生でワークを見せて、「この問題のここが分からなかったです」と言えるようになっている。もし今、私が保護者の方に「ウチの子、質問ができないんです」と言われたら、私はこう答えるだろう。

 

「それでは、質問を『できるように』していかないといけませんね」