自由な校風って言うけどさ

自由にお空を飛びたいな。

それだけの力を付けるのだ


高校受験で志望校を決める時に「自由な校風」に憧れる生徒は多い。自由の代表例と言えば、制服着用の義務がないとかだろうか。埼玉県内にも何校か、服装自由の高校がある。

 

ところで、自由な校風の高校に進学しなくては自由な高校生活は得られないだろうか。確かに「制服を着なくてはいけない」と言われたら、自分が着飾る機会を奪われたと感じる人もいるだろう。しかし、自由な校風であっても校則はある。守るべきルールはあり、そこの違いは学校によってそれほど多くないだろう。

 

ここで「自由な校風」を押し出している学校が同時に謳っていることに注目したい。それは「生徒の自主性」だ。生徒が自ら学校行事を取り仕切ったり、自分で授業のカリキュラムを組んだりできるというものが多い。この点から考えるに、学校側の提示する「自由」とは、「自分で考えて行動する」ことだとうかがえる。つまり「自由な校風」は「何もしなくていい」というわけではないのだ。学校側からあれこれ言われなくても、そういう手厚いサポートのある学校の生徒以上の成果を出しなさい、ということなのだ。県内の制服の無い高校の半数が偏差値60以上であることから見ても、ある程度は「自分で行動できる子」という信頼があって与えられる「自由」だということが分かる。

 

だから自由な校風に憧れる高校受験生は、まず自分で考えて行動できるようにならなくてはいけない。「自由な雰囲気の方がラクそうだな」なんて思うのは、全く筋違いなのだ。自ら行動力と創造性を発揮できる生徒が求められている。それだけの高校を目指すには十分な訓練を積む必要があるということだ。

 

そういうレベルの学校を目指して、決められた学習内容をストイックに突き詰めていくと、やがて自分には成し遂げる力が付いていることに気付く。鍛えた力はその人のものだ。それが自分の思考や視野を広げ、行動の制限を取り払う。以前よりも自由に振舞えるだけの力があることに気付く。そうなれば、制服があろうがなかろうが関係なくいられるだろう。自由は校風の中ではなく、自分の中にある。